台湾について

みやざき中央新聞さんの記事から

その1 「あんた日本人のくせにそんなことも知らんのかい」と言われて恥をかいてこようと思い、 僕は台湾に行ったんです
㈲クロフネカンパニー代表 中村文昭
 僕が台湾に関心を持った最初のきっかけは、一昨年行われたWBCという野球の世界大会のアジア地区予選、日本対台湾戦でした。
が追いついて、延長で逆転して日本が勝ちました。日本の選手たちが大喜びしているところでテレビ中継は終わりました。
 ところがその後、ものすごいドラマが起きたんです。これは球場にいた人しか観ていません。僕は、人から話を聞いてネット動画で見て、めっちゃくちゃ感動しました。
 何が起きたのか。日本に逆転された台湾の選手たち、すごく悔しかったはずなのに、試合後、選手全員がベンチから出てきて、マウンドに集まり、大きな円を作ったんです。監督やコーチ、医療スタッフもいました。そして内側ではなく外側の観客席のほうを向いたんです。そして何をしたと思いますか? 全員が帽子を脱いで深々と頭を下げたんです。
 実はあの試合の前日、1人の日本の若者が「ツイッター」という投稿サイトにこんなことを書き込んでいたんです。
 「僕はどうしても日本と台湾の試合に行ってやりたいことがあった。それは観客席から『台湾、ありがとう』と書いたプラカードを掲げて応援すること。東日本大震災の時、200億円という莫大な義援金を送ってくれ、しかも世界中のどの国よりも早く400㌧もの物資を被災地に送ってくれた台湾の皆さんにお礼が言いたかった。でも、チケットが手に入らなかった。どうか試合を観に行かれる方、僕の代わりにプラカードに『謝謝(シェイシェイ)台湾』と書いて、観客席から声援を送ってほしい」
 台湾側の応援席には台湾のテレビ局が来ているはずです。試合の様子を台湾に実況中継しますよね。同時に応援席も映るじゃないですか。そしたら「ありがとう」のメッセージを台湾の人に伝えられると彼は思ったわけです。
 その投稿サイトを観た日本の若者がこれに乗りました。
 「よっしゃ、あなたの代わりに俺が『ありがとう』を伝えてくる」と、多くの日本人が「3・11謝謝台湾」と書いたプラカードを持って球場に入り、それを自分の前に掲げて応援したんです。
 そして、もっと面白いことが起きました。そのツイッターを読んだ台湾の留学生が、その書き込みを中国語に翻訳し、台湾本土の友だちに発信したんです。それを台湾のマスコミが取り上げて、「日本人がこんなことをしている」と報道しました。
 驚いたのは何も知らない台湾の選手でした。試合中、あちこちの観客席から台湾に感謝するプラカードが出ていたんですから。それで台湾の選手たちは負けて悔しかったと思うんですけど、試合後、マウンドに出てきて頭を下げたんです。
 この話をいろんなところでしていたら、「博多の歴女」といわれている白駒妃登美さんからこんな話を聞きました。
 2011年、東日本大震災のあった年の年末、台湾の新聞社が台湾国民に「この1年を振り返って、あなたにとって最も嬉しかったことは何ですか?」とインタビューしたんです。そしたらダントツで多かった1位の回答が「日本のために台湾が世界一お役に立てたこと」だったんです。
 僕、その話を聞いた瞬間、涙が止まりませんでした。
 さらに白駒さんが言いました。
 「中村さん、日本人はだいたい台湾に行ったら台北(タイペイ)で買い物をして、おいしいものを食べて、エステして帰ってくるけど、実は南のほうに行くと、ものすごく親日的なのよ。日本人より日本のことが好きなんですよ」と。
 その話を聞いて僕は「台湾に行って日本を感じてこよう」「台湾の人から、『あんた、日本人のくせにそんなことも知らんのかい』と言われて恥をかいてこよう」と思い、「一緒に恥をかきに行きませんか?」と呼びかけました。
 そしたら50人ぐらいの人が「一緒に行きたい」と手を挙げてくれて、昨年の3月に行ってきたんです。
 1日目は台北の街を歩きました。団体で歩いているので日本人だと分かるんでしょう。いろんな人から声を掛けられました。それもみんな80代、90代の人たちです。
 明治28年から昭和20年までの50年間、日本は台湾を統治していました。その時代に子どもだった人たちが今80代、90代になっているんです。で、僕らに「私は昔日本人だったんだ」と言いながら嬉しそうに話し掛けてくるんです。 
 あるところで92歳のおばあちゃんが話し掛けてきました。
 「この地下でお茶屋をやっているからお茶を飲んで行きなさい」と。
 「僕ら次の予定があってすぐ行かないといけないんです。帰ってくるのは夜遅いです」と説明したら、「夜中3時くらいまで起きているから大丈夫だ。待ってる」と言うんです。
 「商売熱心やなぁ」と思って、「僕ら、お茶とか買わないと思いますよ」と言ったら、そのおばあちゃん、目にいっぱい涙を溜めながら、僕らに言うんです。
 「私は戦後69年間、日本人からお金を取ったことない。私が日本人からしてもらったご恩を日本人に返さないといけないと思って、街を歩いている日本人を見つけたら必ず声を掛けて店に連れてきて、お茶をごちそうしてきたんだ。私は死ぬまで日本人からお金を取らないと決めている」と言うんです。
 その熱い思いは何なんだと思いました。
 その夜、ホテルで夕食を食べたんですけど、日本人だけで食べても仕方がないので、それぞれのテーブルに80代、90代の人たちに入ってもらいました。
 そしたら、その方たちがやたら「被災地はどうなっているのか?」と、すごく心配されていたので、東北から参加していた3人に今の現状を話してもらいました。
 真剣に聞いていたおじいちゃんの1人が手を挙げて前に出てきて、「私は和歌の会に入っているんだ」と言われたんです。
 話を聞いたら台湾には「和歌の会」とか「俳句の会」とか「川柳の会」とか、そんなのがいっぱいあるそうなんです。
 そのおじいちゃんは2011年、台湾全島の「和歌の大会」でグランプリを取った人だったんです。
 その時に受賞した歌を日本の皆さんに聞いて欲しいと言って前に出てこられたんです。そして、胸を張って堂々と和歌を詠まれました。
 「未曽有なる 大震災に見舞われど 秩序乱さぬ 大和の民ぞ」
 この瞬間、そこにいた日本人はみんな目頭を熱くしました。
 そして、そのおじいちゃんはこう話されました。
 「私は、あの震災直後の日本の皆さんの姿を見て、昔この台湾に来た日本兵の精神が今も生きていると思いました。女性や子どもやお年寄り、体の不自由な方々を先に並ばせて、男たちは『武士は食わねど高楊枝』みたいに後ろで並んでいる。世界中に日本精神を伝えてくれた。あれが私らはたまらなく嬉しかった。70年前の日本人と変わっていない。あの姿を見て、私ら台湾人はみんな心が動いたんだ。まだまだ大変でしょうけど、頑張って欲しい」というようなことを言われたのです。
 そこにいたすべての日本人が、この話を聞いて涙を堪えることができませんでした。

その2 教育勅語をそらで言い、「仰げば尊し」を歌ってくれたおばあちゃんたちが台湾にいた
 台北(タイペイ)市内のホテルのロビーで、90歳と82歳の姉妹のおばあちゃんから声を掛けられました。
 この歳くらいのお年寄りから声を掛けられると大変なんです。話が止まらないんです。
 「あ、またつかまったぁ!」と思って、話を聞いていたら、このお2人の話もまた感動的で、何度も何度も泣かされるんですね。

 こう言われました。
 「あんたら日本人だね。私らは今日もこのホテルに日本語を勉強しに来ているの。私なんか台湾の言葉よりも日本語のほうが上手に話せるのよ」って。実はそんな人が台湾にはいっぱいいるというんです。
 そしてもう一つ驚いたのは、このおばあちゃんが僕の前で教育勅語をそらで言ったんです。皆さん、言えますか? 
 「うちの近所の人たちはみんな言えるよ」とおばあちゃんは言っていました。なんと床の間に教育勅語を飾っている家がたくさんあるというんです。「うちの近所で教育勅語を飾ってない家はないよ」って。
 日本には、教育勅語というと、ナショナリズムとかいって生理的に毛嫌いする人もいます。でも、そういう政治的な問題ではなく、純粋に日本精神を大事にしている人たちが台湾にはまだたくさんいるということに僕は驚き、感動したんです。
 実は、僕も教育勅語をそらで言えます。なんでかと言うと、僕は三重県の皇學館高校の出身で、その高校では、悪さをして謹慎処分になると、罰則で1日1回、筆で教育勅語を書かされるんです。
 僕、悪さばっかりやってて、7日間の謹慎だと7回、14日間の謹慎だと14回、最高で35日間の謹慎処分になったときは35回書きました。
 全く意味は分からず書いていたんですけど、何十回も書いていると自然と覚えてしまって、卒業して随分経ちますが、今でもそらで言えるんです。
 それで、そのおばあちゃんの後から僕も得意の教育勅語を言い始めたら、おばあちゃん、喜んじゃって、「やっぱり日本人だね。日本の若者は素晴らしい」とか言うんですね。
 「いやいや、僕らの世代でそらで言えるのは僕だけだと思います」とは言いませんでしたし、なんで覚えたのかも言いませんでした(笑)
 実は今でも台湾には「日本精神」という言葉がよく使われています。台湾の言葉で「リップンチェンシン」といいます。
 たとえば、10時の約束なのに、10時5分前に来て待っていると、台湾では「あんた日本人みたいなことするね」という意味で、「約束を守るってリップンチェンシンだね」と言ったりします。
 そして、自分のやっている仕事にプライドを持っている。誇りを持っている。そんなことをポロッと言うと、「それはリップンチェンシンだね」と言われるんです。 
 そして、そのおばあちゃん姉妹といろいろ話したんですが、出発の時間になったので、「もう行きます」と言ってバスに乗りました。そしたら、90歳のおばあちゃんがバスに向かってポロポロ泣きながら何か歌っているんです。よく耳を澄ませたら「仰げば尊し」でした。
 そして「最近、日本の卒業式ではこの歌を歌わなくなったそうですね。何でですか?」と質問されました。
 それに説明できずにいると、「私ら70年前、戦争が終わって台湾から日本人が引き揚げていくとき、みんなでこの歌を歌ったんですよ。そのあとも日本の空に向かってみんなで手を繋いでこの歌を何回歌ったことかね」と言われたんですね。

その3 八田與一さん 台湾南部の農業を命懸けで守った日本人がいた
 僕たちの台湾ツアーの中で、台湾最南端にある烏山頭(うさんとう)ダム、通称「八田ダム」に行きました。
 このダム建設を指揮した八田與一(はったよいち)という日本人の名前を知らない台湾の人はいないと思います。教科書にも載っている人で、台湾の人に「日本のスーパースターを1人挙げろ」と尋ねたら、たぶん全員が「八田與一先生」と言うと思います。
 とにかく台湾の人の話を聞けば聞くほど、昔日本人が50年間の統治時代に台湾でやったことがすごいと分かります。欧米諸国のような植民地支配は台湾では一切していないんです。何といっても教育をやりました。そして、日本人がやったインフラ整備は結果的に台湾の人たちの暮らしを向上させました。その代表的な人物が八田與一さんです。
 金沢市出身の八田さんは東京帝国大学の土木科を卒業した明治43年、台湾総督府の土木課の技手として台湾に行くんです。
 当時、南のほうは毎年干ばつがひどくて、農作物が全然取れませんでした。かと思うと、一旦雨が降り出すと集中して降り、洪水が起こって作物が取れないんです。
 また、当時は腸チフスとかマラリアなどの疫病で、人がたくさん亡くなりました。植民地時代、日本人も台湾でたくさん亡くなっています。
 八田さんは、こういう疫病にならなくて済むような上下水道と農業の生産性が上がるような灌漑用水を造らないといけないと考え、国会に申請し、認められました。
 それで、八田さんが国家プロジェクトのリーダーになるんですけど、これがめっちゃくちゃ大変だったんですね。
 結局10年かかって世界一のダムを造るんです。
 日本で一番長い農業用水は愛知用水で、これは全長約100㌔㍍の幹線水路と約1000㌔㍍の支線水路です。八田ダムの灌漑(かんがい)用水の総距離、なんと1万6000㌔㍍です。地球を半周する長さです。それぐらい平等に、すべての田んぼに水が行くように造ったんです。
 着工した翌年にはトンネルで爆発事故が起こって、台湾の作業員が50人亡くなりました。
 その50人のご家族に、八田さんは一軒一軒訪問して頭を下げて謝ると同時に、「それでも工事を続けさせてください。台湾の未来にとって重要なダムなんです」と言うんです。
 大正12年に関東大震災が起こりました。それにより日本経済は壊滅的な打撃を受けます。それでダムを造る予算が半分以下にまで削られました。
 八田さんは、予算がないのでリストラをしなければならなくなりました。台湾の作業員の半分のクビを切るんです。八田さんはどういう人から解雇したかというと、最も実力のある人からやりました。
 一日も早くダムを完成させなければと考えると、技術があって、知識があって、段取りが分かっている人間を手元に置いておくのが普通だと思うんです。
 だけど八田さんは、「技術のある人間は再就職ができるけど、技術のない人間、能力の低い人間は再就職ができない。だから、この人たちのクビを切ることはできない」と考えました。そして、能力のある人のクビを切りながら、台湾中を駆け回ってその人たちの再就職先を探しました。
 そして、この技術のない人たちと10年かけて1万6000㌔㍍のダムを造ったんです。
 話を聞いていたら本当に涙が出るぐらい感動しました。
 今でも八田さんの命日である5月8日には慰霊祭が行われています。

その4 戦時中、台湾の町を救った一人の日本人が「神」として祀(まつ)られている
 台湾の南部に、民間信仰の廟(びょう)で日本人が「神」として祀られているところがあると聞いて、みんなで行きました。「飛虎(ひこ)将軍廟(びょう)」といいます。
 戦時中、日本はアメリカと戦争していたので、植民地だった台湾も戦場となりました。
 ある日、空中戦になって、日本の戦闘機がアメリカの戦闘機に撃墜されました。
 地上には結構大きな町があり、人々は、「戦闘機が墜ちてくるぞ。危ないぞ!」と叫んでいました。
 しかし、その戦闘機は墜ちそうになると機首を上げて飛び、また墜ちそうになると機首を上げて飛び、そうやって町の中に墜ちないように、墜ちないようにして、最後は人の住んでいない山の中へ墜ちたんです。
 町の人々はその様子を地上から見ていました。
 普通なら、撃墜されたらパラシュートで脱出すれば助かりますよね。だけど、戦闘機が町に墜ちたら町は火の海になり、多くの人が死ぬことになります。
 その町の人々は、「あの兵隊さんは私らの命を助けてくれた」と、戦闘機が墜落したところに行って遺体を引き揚げました。
 その兵士の靴には、「杉浦」「茨城県出身」と書いてあったそうです。
 台湾の人たちは日本人と似たところがあって、すごいことをやった人や、志半ばで無念の死を遂げた人を供養の意味も込めて「神」として祀る慣習があります。
 それでその町の人たちがその日本兵を「飛ぶ虎のような将軍」と尊敬の意味を込めて「飛虎将軍」と名付けて祀ったんです。
 でも、日本兵を祀っていることが大陸の中国政府にバレたら大変です。それで台湾の文化人のお墓の横に兄弟分のお墓みたいにして、台湾人を祀っているようにごまかして祀ったんです。
 最初は小さな社(やしろ)だったんですけど、70年代にみんなでお金を出し合って立派な御廟となりました。
 その町に行くと、町の人たちが「日本の皆様歓迎」という横断幕を出して、温かく歓迎してくれました。
 1人の人が、「私らはこの飛虎将軍廟の前で戦後ずっとやってきたことがある。聞いてくれるか?」と言われたので、「何を続けてこられたんですか?」と聞くと、朝の6時と夕方の5時、1日二回、その御廟の前に集まり、朝は『君が代』を、夕方は『海ゆかば』という歌を歌っていると言うんです。戦後70年間ずっと、1日も休まず、です。

 そして、「日本の皆さんの歌う本家本元の『君が代』を聴かせて欲しい」と言われたので、僕ら50人で「君が代」を歌いました。
 歌い終わったとき、台湾の人に言われました。
 「歌い方が違いますよ」と。(笑)
 どういうことかと言うと、「『さざれ~』で息は吸わない」と言われたんです。
 「私ら、日本のNHKで大相撲の千秋楽を見るんです。そのとき、皆さん立ち上がって『君が代』を歌ってますけど、みんな『さざれ~』で息継ぎをしている。あれを見るたびに私らおかしいと思っています。『さざれ石』というのは大切な一つの言葉なので、『さざれ』と『石』の間で息継ぎをしてはいけないんです」とおっしゃるんです。
 外国の人に日本の国歌の説明を受けて言葉が出ませんでした。
 しかも、中学生の僕の息子もツアーに参加していたんですが、「お父さん、これ、何の歌なん?」と聞いてきたんですよ。
 「お前、君が代も知らんのか?」と言ったら、「だって習ってないもん」と言ったんです。本当に恥ずかしい思いをしました。

その5 やりたい、やりたくないではなく何かのご縁でさせられる仕事がある。 それが使命なんだ
 日本人兵士「飛虎(ひこ)将軍」を祀っている飛虎将軍廟(びょう)に行ったとき、「中村さん、実は明日、飛虎将軍のお祭りがあるんです」と言われました。その際、地元の小学生が集まってお神輿を担ぐんだそうです。
 実は、飛虎将軍廟の隣に、台湾の文化人の方が祀(まつ)られています。
 でも、その文化人を乗せるお神輿はあるのに、飛虎将軍に乗っていただくお神輿がない、と言うんです。
 廟の裏の倉庫に案内されて、台湾のお神輿を見せてもらいました。それは真っ黒い大きなお神輿でした。その横に小ぶりのお神輿が2基あったので、僕は「あの小ぶりのお神輿に飛虎将軍を乗せたらいいんじゃないですか?」と言ったんです。
 そしたら、「中村さん、私らは心から飛虎将軍を尊敬し、神様と崇めて、毎日手を合わせているんです。その飛虎将軍をこんなみすぼらしいお神輿に乗せることはできません。その気持ちを分かってください」と言われました。
 そして、こう続けました。
 「私ら、いつか日本から白木のお神輿が届けば、正々堂々と飛虎将軍をそのお神輿に乗せてやりたい。そんな思いをずっと抱いているんですよ」
 僕、それを聞いた瞬間、思わず「いつか僕らが日本からそのお神輿を届けられたらいいですね」と言ったんです。すると、その言葉を聞いた台湾の人たちは、「え!」とすごく驚いた顔をしました。
 今回、片倉さんという方に通訳をお願いしていました。片倉さんは台湾に長年住んでいて、飛虎将軍廟にもこれまで20回以上行っているんです。そして、つい10日ぐらい前にも行っていたらしいんです。
 その彼が、「僕は20回以上、飛虎将軍廟に来ているのに、一度もお神輿の話を聞いたことがありません。初めて来た中村さんにどうしてお神輿の話をしたんですか?」と聞いたんです。
 そしたら、台湾の人は、「実は、2年前に神様からのお告げがあったんです。『もうじきお神輿を持ってくる日本人が来るぞ』というお告げが」と答えたんです。
 それで、この2年間、地元の人は日本人が来るたびに「この人かな、この人かな」と思っていたそうです。
 僕はその日、とても趣味の悪い派手なシャツを着ていたんですけど、そんな僕を見た台湾の方々は「この日本人だ!」と思ったんですって。
 そして、僕もまたその話を聞いた瞬間、「これが僕の使命かも」と思ったんです。
 僕は、伊勢修養団の中山靖雄先生に昔からいろんなことをよく教えてもらっていました。
 中山先生という方は、「伊勢の父」と呼ばれ、社会教育活動を実践する修養団で約50年間、人材育成に人生を捧げてこられたすごい人なんですけど、その中山先生からもらった言葉で「表と裏と裏の裏」という言葉が僕は大好きなんです。
 それはこういうことです。「人生には、やりたくてやる仕事がある。やりたくてもできない仕事もある。そしてもう一つ、やりたいとかやりたくないとか、そういう意識すらしていないのに何かのご縁でさせられる仕事がある。それはやらねばならない仕事。それが使命なんだ」
 僕は台湾に行ったとき、何だか分からないんですけど、自分の使命を感じたんです。それは、今までこのために生きてきたのではないかと思うぐらいでした。
 そして、僕のことを「神のお告げの日本人」と言ってくれたとき、もうたまらなかったんです。
 すでに、宮大工にお神輿を発注しました。2015年の春、そのお神輿を届けに再び台湾に行きます。

(昨年、伊勢青少年研修センターで開催された教育立志会にて/文責編集部)
【なかむら・ふみあき】昭和44年三重県生まれ。皇學館高校卒業後、家出同然で上京。職務質問された警察官が友人第1号になる。その警察官に連れていってもらった焼き鳥屋で師匠となる人物と出会い、その日に弟子入り。翌日から野菜の行商を始める。21歳で三重県に戻り飲食店オープンし、地域の繁盛店にする。26歳で総工費2億5000万の結婚式ができるレストランを建設、オーナーとなる。現在は全国で講演をする傍ら、北海道の農地でひきこもり・ニートの若者と農業を行っている。著書に『お金でなく、人のご縁ででっかく生きろ!』など多数。



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