夫婦愛

倫理法人会講師
 縁あって、初めて倫理の講演会に参加した。当時世話になっていた先輩から誘われて、義理で仕方なしについて行った。ところが、その中で聞かされた一つの実話によって、私自身の人生観が180度転換して生まれ変わることができたのである。

 この実話は、現在の世の中とは全くかけ離れ、今の東京がまだ江戸と言われていた頃、いわゆる徳川幕府時代、天保年間、幕臣の1人に須原通元という人がいた。実在の人物である。

あるとき、その須原家に出入りしている大工の棟梁が、主家の須原家の部屋の模様替えをすることになった。数人の大工が、張り巡らされているその部屋の板を1枚1枚はがしていた。

すると、はがした1枚の板の後ろに、ちょうど股のところを釘で打ち抜かれ、その釘を中心にしてクルクル回っている1匹のヤモリを発見した。

 何を思ったか、大工の棟梁が主人の通元を呼んできて2人で話し始めた。この部屋を以前に模様替えしたのは確かに7、8年前であった。そのとき新しい板と一緒にくぎで打ち抜かれたのであろう。それにしても、まだ生き長らえているとは不思議なこともあるものだと。

このように話していると、何事が起こったのか家の者も皆集まってきて、大勢でこの釘刺しのヤモリを眺めていた。
 すると、どこから現れたのか、もう一匹のヤモリがチョロチョロと出てきて釘刺しになっているヤモリのそばにやってきたかと思うと、やにわに口の中に含みくわえていた虫を食わせ始めた。

 それを見た通元が、膝をたたいて感心をした。「釘で打ち抜かれてどうやって生き長らえてきたのかと不思議に思っていたが、やはり餌を運ぶやつがいたのか。どちらが雄でどちらが雌か分からぬが、こうして身動きのできない相手にえさを運ぶ、養い続けているとは人間も及ばない振る舞いだ。棟梁早く助けてやれ」。棟梁が釘を抜いてやると、2匹のヤモリは嬉しそうに頭を並べてにげていった。

 このとき、皆と一緒にこのありさまを見ていたこの家の女中で、お市という女がやにわにワーッと大声をあげて泣き崩れてしまった。驚いた通元が一体どうしたのだと尋ねると、「今すぐお暇をいただきたい」と涙とともに打ち明けた。その事情とその顛末は、次の通りであった。

 このお市は、千葉の在でいったん嫁入りをした。ところが、数年たたない間に夫があの忌まわしい業病と言われているらい病(ハンセン氏病)にかかった。耳や鼻が溶けていくという恐ろしい業病にかかった夫が汚くて仕方がない。今の世の中であったならば問題はなかったかもしれないが、飛び出してしまったらそれまでであった。

その頃は、いわゆる封建時代であったから、妻が夫の離縁状を持たずに家を出た場合は、手が後に回ったという大変な時代であった。それでもあまりにも夫が汚い、いやでたまらない。

 とうとうお市はある夜、意を決して家を飛び出し逃げるようにして江戸に出て、つてをたどりたどって須原家に武家奉公をした。当時は武家屋敷に入ってしまうと、もう追っ手がかからなかったそうで、重病の夫を見捨ててきた。何故か心がとがめる。

しかしあのらい病は汚い、いやだと、そんな毎日を送っていたところ、目の前で2匹のヤモリの姿を見せつけられて、自分という女がいかに冷酷な、鬼のような女であったかということを思い知らされ、もう一度夫のもとに帰りたいと言い出したのである。

 主人の通元の情けある計らいで、お市はいったん生家に戻り、日ならずして、
お市は仲人に連れられて再び夫の家の敷居をまたいた。もうすでに重症で、寝床の中にふせっている夫の枕元にまいり、畳に頭をすりつけ心の底から詫びを入れた。

すると夫は、寝床の中から這いずるように出てきて「おれは何の因果かこのような人にも会えぬ業病にかかってしまった。お前も辛抱さえしていてくれさえすれば、実は里にも帰してやろうと考えていた。しかしお前があまりにもつれなく、いやがり嫌うので意地でも帰さぬと、今まで離縁状を書かずに頑張り続けてきた。しかし今のお前の詫びを聞いて、その恨みつらみはすっかり晴れてしまった。さあ喜んで三行半を書いて進ぜよう」。

 この夫の言葉を聞いたお市がびっくりした。「とんでもない、今日まいりましたのは離縁状をいただきに来たのではございません。もう一度あなたのそばに置いていただきたいとお願いにまいったのでございます」「お市、それは本当か」「はい、私はやはりあなたの妻でございました」 二人はしっかりと手を取り合い、抱き合った。

 それから、このお市の真心こめた介抱、命がけの看病が始まった。人間が命をかけて、己の真心を傾注していったとき、どのような大きな力が湧き出てくるか。すでに命も危なかったその夫が、奇跡的に快方に向かい始めたのである。そして、この夫婦は人の伺い知れない幸せな余生を送ったということである。
 
 ヤモリの夫婦愛に教えられた実話(『東西感動美談集』講談社発刊)

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